どうしてこうなった

先日 仕事関係の人に買ったばかりのタブレットで営業資料を見られるようにしてほしいと頼まれた
その営業資料は私がまとめたものでPDF化してあるのだが タブレットでも見やすいようにiPadに合わせて4:3のアスペクト比にしてある

そしてその人が持ってきたのはdocomoの富士通タブレット
資料はiPad用なので16:9のワイド画面だとぴったりには表示できませんよと説明したが 詳しく聞いてみるとタブレットそのものが初めて使う上にiPadが何なのかも分かってなかった
つまり「タブレットがほしい」と希望してきた超初心者の人に ドコモショップの店員はAndroidタブレットを勧めたということになる

仕事で使うタブレットならまずiPadの検討を勧めるべきだと私は思うが そこは買いに行った人と店員との間に交わされた会話次第だと思うので 一概に店員を責めることはできない

問題は渡されたタブレットのホーム画面

私はiPhone5sとXperiaZ4を使っていてiPadも使っているし Windows8.1のタブレットも持っている
初めて手に入れたスマホもAndroidだったので たいていの端末についての基本操作には戸惑わない自信はあったのだが……

画面を見た最初の感想は「何だこれ?!」だった

docomo独自のアプリが画面中に溢れていて 普通にあるはずのChromeが見つからない
というかブラウザ自体がない
営業資料はPDF形式で会社のサイトに置いてあるので ブラウザでページを開いてブックマークしておけばとりあえず第1段階はクリアできる
ついでだから資料をダウンロードしておいてあげようとしたら ダウンロードは始まったが保存先が分からない
PDF閲覧アプリも入ってないのでAdobe Readerをインストールしてセットアップ

なんとか最低限使えるようにはしたのだが 本人がちゃんと資料を見ることがでるように理解してもらえたかはまったく自信がない

まず何が問題かというと Android標準の操作からはかけ離れたホーム画面とブラウザがホーム画面にないこととか あまりにも独自色に染めすぎた操作性だ
これを電話で操作を教えてと言われても まずこちらが状況を理解できないし 仮に理解できたとしても今度は操作方法を上手く伝えられる自信がない

なんでこんなことになってるんだろうと 知り合いにPCのセットアップを頼まれたときにも思った感想を繰り返してしまった

キャリアの独自性をほとんど盛り込めないiPadなら 共通の説明書を作ることは難しくない
実際に今回の資料をダウンロードするための方法の説明書も A4用紙4ページほどでかなり分かりやすいと言ってもらえたものを作ることができたし 遠くにいる人もその説明書で無事に資料を活用できている
これはiOSの操作性にカスタマイズの余地がなく ほとんどの人がそのまま使っているという状況が想像しやすいから実現できたことだ

私はiOSもAndroidもPCではWindowsもMacOSも使っているのでOS自体に縛られることはないが 基本的にはカスタマイズは最低限で使うようにしている
使いやすいとか使いにくいとかは個人の感覚なので カスタマイズで自分好みにしたとしても それが誰にでも使いやすいとは限らない
それよりもOSの設計者の意図を理解して慣れた方がいいと思っているからだ

それに知り合いに操作方法を聞かれたときにも カスタマイズしてない素のOSの動作に慣れている方が説明しやすいというのもある

だが ここでメーカーによる勝手なカスタマイズが最初からしてあると 操作を聞いてきた人の方が素のOSを知らないということがある
実際に以前 会社のパートの人からPCの操作を電話で聞かれたのだが こっちの伝えようとすることがさっぱり伝わらない
話が全然かみ合わないので それがノートPCだと分かった上で会社まで持ってきてもらうことにした
そして画面を見せてもらって驚いた
メーカー独自のランチャーが画面いっぱいを占めていて Windows標準の機能アイコンさえも別名が付けられてしまっている
これじゃメーカーのサポートしか分かるはずがないじゃないか

思えばWindows95あたりから日本の主立ったメーカーは独自のプログラムランチャーで勝手に操作性を設定してきた
いわゆる家電メーカーの囲い込み作戦なのだろうが 問題はその操作性が独自すぎて 下手な例えで言えば車のアクセルとブレーキの位置がメーカー毎で別々なぐらいに使い勝手が違いすぎる感じと言えばいいだろうか

Windowsについてはまだその独自性もOSの基本操作に従ったものだからマシだったが スマホやタブレットのAndroidに関しては本当に勝手すぎるほどの改変が行われているイメージがある
日本は独自仕様が多くてガラパゴス化しやすいと言われるが 物理的なハードについては標準化したがるくせに なぜソフトウェアのUIについて標準化の動きがないのだろうか
主に英語圏で設計・製作されるOSを日本語にローカライズするためには その単語から標準化していかないと初心者ユーザーがついて来れない
代表的な例ではブラウザという言葉が浸透してない
インターネットのコンテンツを閲覧するためには必須のアプリで標準的にどのOSにも用意されているのに OSや環境が違っても使える用語として「ブラウザ」と言っても最近やっとスマホやタブレットを使い始めたばかりの人には通じない
いちいち相手が使ってる端末から察してSafariだとかChromeだとか言わないといけないし それもなかなか通じない
「ブラウザをタップして」で通じれば簡単なことなのに それを伝えるのにいろんな語彙を駆使して伝えなくちゃいけない現状をメーカーの開発者は理解しているんだろうかといつも思う

ある程度の年齢層より下の世代は学校でもPC操作を習っているだろうし 私の世代でも仕事でPCを使わざるを得ない人は多いから それがスマホやタブレットに替わってもある程度は使いこなせるが 今爆発的に増えているネット人口の多くはPC知識がないままスマホから入った人だろう
そういう人たちはPCやアプリについて習ったこともなく どれが基本でどれが応用だとかも分かってない場合が多い
それはメーカーからしたら新しい顧客を獲得するチャンスだし できるだけ自分のメーカーに特化したユーザーにしてしまいたいのかもしれない

でもそれがスマホに馴染めずにガラケーに回帰してしまう人やデジタルデバイドな人を生んでいる原因になってしまっているとも思う
日本のメーカーも競争ばかり考えずに もう一回り大きな市場の拡大を目指して操作性の標準化を進めることはできないだろうかと思ってしまう
どのメーカーのスマホやタブレットを買っても操作性はほとんど変わらないとなれば 私のようにどの端末を買えばいいか聞かれる立場の人間もiPadだけを勧めることから脱却できると思うのだ

やはり日本のデバイスが世界の第一線で売れてほしいとは思っているのだから

AVセンターとしてのBDP-105DJP

自宅の動画と音楽の再生環境を晒しておく

AVセンターとしてOPPO BDP-105DJPを置いて各デバイスを接続している
接続図
実際にはPCが複数台あるし メディア保管場所としてNASも使っているのでもう少し複雑な接続になっている

本来ならAVセンターはAVアンプのRX-V577で足りるのだが RX-V577にはデジタル音声出力とか音声のバランス出力とかはない

やりたかったのはPCから出力した映像をプロジェクターに映し 音声をヘッドホンアンプに送りたいというもの
PCからUSB-DACに音声を送るようにすれば簡単に実現するのだが この図を見てもらえば分かる通り 机の上には各装置のリモコンがズラっと並んでしまってるような状態なので できるだけ操作ミスで大音量を轟かしてしまうようなことは避けたかったのだ

例えば映画を見るとしても 流し見みたいなときはスピーカーで 本気で迫力いっぱいに楽しみたいときはヘッドホンで楽しみたいのだが AVアンプのヘッドホン端子の音では不満があったし ヘッドホン端子を接続して音量を上げて そのまま次に電源を入れたときにスピーカーで鳴らして大音量とかのトラブルも怖かった

BDP-105DJPにはHDMI入力が付いていて 音声をXLRによるバランス出力もできる
同じことができるAVアンプは超高額なものしか見つけられなかったので 私の目的には105DJPが調度良かったのだ

さらにHDMI出力も2系統付いているので メイン出力をプロジェクターに サブ出力をPCモニターに送っている
105DJPの操作は本体の小さい液晶モニターを見ながらよりも やはり画面を見たほうがやりやすいので 画像が出るまで時間がかかるプロジェクターをちょっとした設定のために立ち上げるのはためらわれるのだ

105DJPの機能は気に入ってるのだが DLNAの動画再生については不満を感じている
これはDLNAサーバーであるNASの機能不足かもしれないが PCから出力するときにやってるような再生順を自由に選んでプレイリストに加えるようなことができれば不満がなくなるのだが

映画と原作

最近「映画 進撃の巨人」についての酷評をよく目にする
私自身は漫画の実写映画化 特にファンタジー要素の多いもので良い評判を聞くことがないので 実写映画化の話題が出た当時から興味はなかったのだが 最近目にする酷評のオンパレードに考えさせられるところがある

以前から疑問…というか 未だ完結していない原作をアニメや映画とかの映像化しようとすることが失敗に繋がっているんじゃないかと思っていた
まあ 完結とは言えなくても 例えば長編作品の○○編が終わってるとかなら問題ないとは思うけども

完結していないということは 登場人物がどんなキャラなのか確定していないということなので 原作で表現されている部分だけでキャラの人格が設定されることになる

具体的な例で言えば 2003年から放送されたアニメ「鋼の錬金術師」がある
原作は全27巻にも及ぶ長編作品なのに 人気があるからという理由だけで原作7巻あたりが出た程度でアニメ化されたのだが 原作のネタバレを防ぐためもあってかアニメは設定から大幅に改変されたものとなった
改変されたストーリーそのものは原作とはかけ離れながらもそれなりに面白かったのだが 登場人物の性格が原作とかなり違っているのがストーリーの面白さをかなり阻害していた
原作漫画の登場人物は敵方でさえも魅力的なのだが このアニメの方ははっきり言って「下衆い」のである
主人公でさえも魅力的には思えないほどだったので 単純に脚本が悪いのだろう

思い出補正なのか「アニメのハガレンはけっこう面白かったよね」という意見をよく耳にするが 2009年から原作準拠で作製されたアニメ「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」を見るなり原作を全部読むなりしてからもう一度旧版の全編を見てほしい
登場人物が下衆という意味を分かってもらえると思う

名作あるいは佳作といわれる映像作品は登場人物に魅力があって それが物語の進行を支えている
シリーズ化されているものなどは登場人物に魅力がなかったら見ていられない

進撃の巨人は原作も読んでるしアニメも見たが 今回の実写映画は登場人物の設定がかなり変えられているらしい
それが魅力を増す方向に行っていれば良いのだが 今回の映画では所謂日本のメロドラマっぽくなってるとか

制作スタッフが予算がないことを言い訳にしてるとかの情報も流れているが メインキャラの人物設定に予算は関係ないと思うのだけども

舞台設定やストーリーに原作者も絡んでるという情報もあるが 最近の日本映画やドラマでよく使われる原作改変の言い訳として原作者が使われてるような気がしないでもない

まあ 進撃の巨人に限らず 漫画原作の実写化で成功した例は極端に少ないので 企画段階から根本的に見直さないといけないことは山ほどありそうだが 何はともあれ未完の作品を映像化するときには 原作と同レベルか超えるぐらいの作品を新たに作るぐらいの覚悟は必要なんじゃないかなと今回の騒動を見ながら思ったのだった